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歴史・人物

 

 【日本】

http://www.crossnet.com.my/Mymagazine/CurrentMagazine/mymagazine_history.htm

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日本最古5億年前の地層、茨城の山地で発見

 約5億年前にできた日本最古の地層を、茨城大や国立極地研究所の研究チームが茨城県日立市北部の山地で発見した。
 日本列島誕生の時期が、従来説より最大で6000万年さかのぼる可能性がある。教科書を書き換える成果で、秋田市で20日から始まる日本地質学会で発表する。

 

 

日経エレクトロニクスが目撃した電子産業・歴史の現場

日経エレクトロニクスが創刊した1971年から現在までの電子産業の歴史を振り返る。各年を象徴する話題を一つ選び,当時の時代背景や記者ならではの秘話,今だからこそ分かる意味を綴った。執筆は,そのころ記者として日経エレクトロニクスの編集に携わったメンバーに依頼した。各年に掲載して読者の評判が高かった記事も併せて紹介する。現場の視点で見た電子産業の変転からは,不透明な未来を自ら切り開いた先人の知恵が浮かび上がる。
 

 

■第360回 献上書物がやってきた!(将軍様の図書館その5)

●臨時のお仕事
将軍家には、大名、旗本から書物の献上がありました。
この書物献上への対応が、御書物方には臨時ではありますが、重要な職務でした。
大名、旗本が所蔵する、名書、奇書、珍書を将軍家に献上し、覚えをめだたくしようとの考えでなされることが多かったようです。
まず、献上者側から目録が渡されます。
御書物方は、その目録を見て、蔵書との重複を確認します。
すでに蔵書となっている書物は,一度は文庫に所蔵しますが、ある期間を経て廃棄処分にします。

紅葉山文庫が将軍家専用の図書館であっても、保管できる蔵書数には限度があるからです。

●古書のにおいが欲しい!
当初は、献上する書物は新品同様でなりませんでした。
そのため、以前の所有者の所蔵印、書き込みは消されました。
新書同様にして献上することが、条件となっていました。
ところが、八代将軍吉宗がこれに不満をもらしました。
「古書のはずなのに、古書のにおいがしない」という不満です。
さらに吉宗は、「本文より書き込みが、はるかに価値がある」と嘆きました。
そして、古書に限っては、化粧直しは不要、現状のままで献上すべし、と大名、旗本たちに伝えられました。
これにより、『現状のまま』で献上されることとなりました。
献上者側は楽になりましたが、それを受け取る御書物会所の仕事が増えてしまいました。
明らかなゴミは除かれていましたが、神経を使わなければならないのは、以前の所蔵者の書き込みです。
純粋に学問的な書き込みであればよいのですが、なかには不真面目ないたずら書きがあります。
さらに、学問的な書き込みでも、幕府の政治を批判する内容であれば、そのままにはできません。
それを見た将軍が不愉快になっては、責任問題が発生します。

●全てを記録
しかし、御書物方同心が勝手に消去することはできません。
御書物奉行の上司である若年寄に判断を仰ぐために、まずは書き込みの記録を取らなければなりません。
丁寧に1ページずつ繰りながら、書き込みを探します。
書き込みがあれば、そこに付箋を挟みます。
その時点では、記録はしません。
記録は別の同心の担当です。

古書には、実に多くの物が挟まれています。
たとえば、毛髪、紙片、糸くず、千代紙、爪などです。
これらの異物を古書から取り除くのも仕事のひとつです。
取り除いた異物は捨てずに保存します。
異物を入れた袋に、どの書物のどのページのどの部分についていたか、そこまで詳細に書いておきます。
場合によっては、献上者にとって大切な文書、品であるかも知れません。
あとで問題が起きた場合に備えた自衛策なのです。

この単調で退屈であっても、神経を使う仕事は、古参の同心ではなく、新米の同心の仕事であったようです。

 

 

「歴史好きの素人が語る歴史」まぐまぐメールマガジンID:0000183170より

登録・削除: http://www.mag2.com/m/0000183170.html

 

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 【海外】

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第428回 なぜイギリス料理は、まずいのか(その3)

(身近な生活のイギリス近代史)

●消えるか?『おふくろの味』
現在の日本では、料理ができない若い女性が増えています。
それぞれの家庭の事情で、母が娘に料理を教えられないようです。
やがては、日本の食卓から昔の『おふくろの味』が消えて、新しい『おふくろの味』が登場するでしょう。
産業革命期のイギリスでも同じ現象が起きていました。
農村から都市へ移住した労働者の賃金は低かったため、それを補うため妻も働いていました。

●子どもたちまで
妻ばかりでなく、小さな子どもたちも働きに出ていました。
街頭での物売り、使い走りなど、小さな子どもでもできる仕事がたくさんありました。
当時は、小さな子どもたちの労働を禁止する法律はありませんでした。
産業革命の初期の工場では、7、8歳の子どもたちが働いている工場がありました。
当時の基幹産業であった繊維工業では、珍しい光景ではありませんでした。
朝の日の出前から深夜まで働いていた例もあります。
それでも、驚くほどの低賃金でしたが、労働者の家計を補うには十分であったかも知れません。
母親には、娘が料理の手伝いをしてくれるより、工場で働いてくれたほうがよかったでしょう。

●家事を知らず
そのような状況では、『おふくろの味』の継承は不可能でした。
1833年、工場法が制定され、10歳未満の子供の労働は禁止されました。
しかし、それでも繊維工業の労働力の主力は、10代から20台前半の若い娘たちでした。
料理だけでなく、家事全般を母から教わらずに成人する娘たちが増えていきました。
『おふくろの味』を覚えている労働者階級の男性には『なげかわしい』と思われたでしょう。
しかし、自分の低賃金では、『おふくろの味』の再現は不可能でした。
仕事帰りにパブへ寄り、一杯ひっかけて、憂さを晴らすしかなかったでしょう。

●宮崎県知事ならずとも
労働者階級の現状を見過ごしにはできないと考える人々が中流階級の中にいました。
中流階級が必要とするサーヴァント、コック、メイドの供給源が労働者階級なのです。
中流階級の女性たちは、自らは家事をすることなく、料理はコック、メイドにまかせていました。
そのコックの料理技術は、自分たちの食卓に並ぶ料理に影響してきます。

『どげんかせんといかん』と危機感を持った中流階級の女性は行動を開始しました。

 

 

「歴史好きの素人が語る歴史」まぐまぐメールマガジンID:0000183170より

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 【人物】

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座談会:技術者中尾の「人」を語る(前編)

 20年以上続く「松徳会」という集まりがある。松下電器産業(2008年10月1日からパナソニックに社名を変更)を支えた中尾哲二郎の遺徳を偲び、生前関わりのあった人達による親睦の集いだ。地位や役職に関係なく、今でも数十名が名を連ねている。今回は、メンバーの中から特に中尾にゆかりの深かった5名に集まっていただき、様々なエピソードを明かしてもらった。
 出席者は朝倉栄三(元松下産業機器株式会社社長)、小野幾男(元中尾研究所・部長)、中野稔(元製造・技術研修所長)、西田崇(元中央研究所・試験部長)、松本栄子(元中尾哲二郎秘書)である。(あいうえお順、敬称略)

 

 

座談会:幸之助と中尾をMOT的に考える(後編)

 

座談会:幸之助と中尾をMOT的に考える(前編)

 1990年から1996年にかけて松下電器産業の技術担当副社長を務めた松下OBの水野博之氏と、同じく松下OBで立命館大学MOT大学院テクノロジー・マネジメント研究科長の阿部惇教授に、MOT(技術経営)の観点から、幸之助と中尾の二人三脚の真髄を語ってもらった。

 

 

台湾銀行破たん−−金融恐慌の陰で財閥は太りゆく
丁稚が創った世界企業〜金子直吉伝・17

 政局が、「金融恐慌」の引き金をひいた。
 金子直吉が築き上げた鈴木王国の運命は、風前の灯となった。
 若槻禮次郎率いる憲政会内閣は、金本位制度への復帰という大方針のもと、鈴木商店―台湾銀行を救済する「震災手形処理法案」を議会に提出した。経営が悪化した中小の銀行を整理統合する代わり、鈴木―台銀は救おうともくろんだ。金融界の枝葉を落とし、幹を生かす法案である。当初、法案は波乱なくスムーズに可決するとみられていた。

 

 

「構造改革」が金融恐慌の引き金に
丁稚が創った世界企業〜金子直吉伝・16

 若槻禮次郎が率いる憲政会内閣は、未決済額が2億700万円に膨らんだ震災手形を「財界のガン」とみなし、処理を行う決断を下した。1927(昭和2)年1月26日、鈴木商店−台湾銀行の不良債権を大量に含む震災手形の処置法案が議会に上程される。
 ただし、この時点では、台銀の未決済額が1億円、そのうち鈴木関連が7200万円を占める事実は明かされていない。債務状況が表沙汰になると、信用不安を招く怖れがあったからだ。
 

 

海運大不況が鈴木商店に落日を呼ぶ
丁稚が創った世界企業〜金子直吉伝・15

政治の舵取りを誤った寺内内閣を大阪朝日新聞は激しく糾弾した。そのとばっちりを食った鈴木商店は、米価高騰への民衆の怒りを浴び、「米騒動」で焼き打ちされた。米の値段を釣り上げた買占めの元凶は鈴木商店ではなかったにもかかわらず……。
 この焼き打ちによって、金子が心血を注いだ「日米船鉄交換交渉」の契約書類や目論見書(第12回「鉄飢饉を救った『日米船鉄交換契約』」)はすべて焼失し、その実行が遅れた。追い討ちをかけるように第一次大戦の休戦協定が結ばれ、海運界は一転、不況に陥った。鈴木の大商いを支えた船が余ってしまったのだ。
 

 

メディアに「悪徳商社」の烙印を押されて
丁稚が創った世界企業〜金子直吉伝・14

 焼打ちの10日前、ときの寺内内閣は「シベリア出兵」宣言を出している。イギリスとフランスにせっつかれて出兵を決めたのだが、寺内内閣にとって痛恨の失政であった。そして、この決断を外務大臣として下したのは、他ならぬ後藤新平だった。世間は、後藤と金子が昵懇の仲だということを知っている。

 

 

本店焼き討ち、「買占め」の汚名
丁稚が創った世界企業〜金子直吉伝・13

 第一次世界大戦が始まった1914(大正3)年から、わずか5年間で日本のGDPは約3倍に増え、工業生産高も5倍増を記録した。この超高度成長を支えたのは「輸出」だった。
 戦火が拡がる欧州に向けて、軍需品を中心に物資を送り出す。生産体制が崩れたイギリスに代わって、アジアに綿製品をどんどん輸出する。砂糖や小麦、豆類を三国貿易で欧州に運びこむ。国際収支は黒字が続き、外貨保有高は一挙に6倍となった。
 しかし、戦争終結の気配が漂ってくるにつれ、輸出頼みの日本は厳しい現実に直面する。その衝撃の第一波が、参戦を表明したアメリカからの「鉄材輸出禁止令」だった。鉄鋼供給を米国に依存していた造船・海運界は、たちまち「鉄飢饉」に見舞われた。政府間交渉ではラチがあかず、ついに金子直吉が立った。
 

 

鉄飢饉を救った「日米船鉄交換契約」
丁稚が創った世界企業〜金子直吉伝・12
 米国に派遣していた調査員が、ようやく帰ってきた。
 調査員は、米国内の鉄材の需給状況、船舶の損失ぶりなどを細かいデータを添えて報告した。日系人の排斥運動も絡んで、世論は強硬なようだった。「へぇ、そう」「ああ、そう」と金子は、いつもの相槌を打っていた。ひとしきり話を聞き終えて、金子は質問を発した。
 

 

丁稚、日本一の貿易商社を率い「天下三分の計」に出る

丁稚が創った世界企業〜金子直吉伝・11

 その朝、須磨の自邸で目覚めた金子直吉は、書斎に入った。
 東の空に昇った太陽が、瀬戸内の海をきらきらと魚鱗のように輝かせている。 1917年11月、中秋の穏やかな光に包まれて、金子と鈴木商店は絶頂にあった。

 

 

財閥が尻込みした「製鉄業」に乗り出す
丁稚が創った世界企業〜金子直吉伝・9

 鈴木商店の重工業路線は、「神戸製鋼所」が起点となった。金子が前身の小林製鋼所という不安定な会社を買収したのは、1905(明治38)年9月。じつは、この買収劇、金子が望んで仕掛けたのではない。「その日の出来心で浮気をしたような」ものだった。

 

 

若手に決裁権、世界を相手に大勝負
丁稚が創った世界企業〜金子直吉伝・10

明治が去り、新しい時代、大正の世が訪れた。
景気は低迷しているが、神戸の鈴木商店には、若々しいエネルギーが満ちていた。

 

 

■第393回 琴欧洲の祖国の物語(前編)(ブルガリア史入門)

●国名の由来、『民族』の神話
『バルカン半島』といえば、我々は『スラブ人が住む土地』を連想しますが、それがなかなか、そう簡単ではありません。
そもそも『ブルガリア』という国名が、アジアからきたトルコ系の遊牧民族であるブルガール人に由来しています。
トルコ系といっても、現在のトルコ共和国に住むトルコ人と同じ民族であるかは、非常に疑問です。

現代の我々が使う『民族』は、しばしば政治的な動機、意図があって使われています。
その代表例が『トルコ民族』です。
トルコは第一次世界大戦ではドイツの同盟国となり、敗北しました。
敗北後のトルコ共和国の建国の父は、ケマル・アタチュルクです。
ケマル・アタチュルクが新国家建設に伴う、国民統合のため「我々の祖先は、はるか昔に中央アジアから移住した」という『神話』を作りました。
中国の唐朝の歴史には、『突厥』『鉄勒』という北方民族の名称が出てきます。
これは『チュルク(トルコ)』の音訳と考えられています。

ブルガール人が中央アジアから移住したことは史実ですから、彼らはアジア人なのです。
現在のモンゴル人も広い意味では『トルコ系』と考えられています。

ブルガール人が現在のブルガリアへ移住して、この地の民を征服したのが681年です。
日本の大化の改新(645年)の36年後です。

●混血、そして融合
紀元前のはるか昔、現在のブルガリアの地には、トラキア人が住んでいました。
トラキア人はインド・ヨーロッパ語族に含まれる集団です。
紀元前4世紀、マケドニアのアレキサンダー大王に征服され、以後はギリシャ化が進みました。
紀元前1世紀、ローマの属州となりました。
今度はローマ化が始まりました。
ブルガリアの北にあるルーマニアには、ローマ帝国時代に、ラテン系の人々が移住しました。
こじ付けといわれるでしょうが、『ルーマニア』は『ローマニア』が変ったものかも知れません。

さらに、スラブ人の一派である南スラブ人が南下して定住します。
ブルガール人が征服した先住民は、ギリシャ人、ローマ人、スラブ人が複雑に混血、融合していたのです。
その融合に、アジア系のブルガール人が参加して、現在のブルガリア人が出来上がりました。
ただし、ブルガール人は先住民より人口が少なかったため、彼らに同化されたのかも知れません。

現在のブルガリア人の先祖は『ブルガリア帝国』を建設して繁栄しました。
この『ブルガリア帝国』の領土が近世のブルガリア人が目指す領土となりました。

●モンゴルの侵入、トルコの支配
1242年、ブルガりアはモンゴル軍の侵入を受けました。
その36年前の1206年、モンゴル高原を統一したテムジンはチンギス・ハーンとなり、モンゴル帝国の建国を宣言しました。
そして周辺諸国の征服事業に着手しました。
1227年、チンギス・ハーンが死去するまでに中央アジアの大部分がモンゴル帝国の領土となりました。
日本では鎌倉時代の初めです。

第二代ハーンとなったオゴダイは、大会議(クリルタイ)を招集して、西方世界の征服を決定しました。
1237年、モンゴル軍は現在のロシアの平原に侵攻を開始しました。
当時は、ルーシの小国家が分立していました。
ルーシとはスカンジナビア半島から移住して、先住民を征服したノルマン人の種族の名前です。
ルーシがロシアの由来です。
モンゴル軍は、ルーシの連合軍を撃破し、現在のウクライナの首都キエフを焼き払いました。
さらに、西進してポーランド、ドイツを席巻しました。
1241年、現在のポーランドのリーグニッツで、ポーランドとドイツ騎士団の連合軍を完膚なきまでに叩きのめしました。
モンゴル軍は、南下して現在のオーストリアの首都ウィーン近郊にまで迫りました。
この時、モンゴル本土からオゴダイ・ハーン死去の知らせが届きました。
全モンゴル軍は撤退を開始しました。
ある部隊は撤退途中、アドリア海岸に達しました。
対岸のイタリア半島を見たモンゴル兵がいたかも知れません。

中部ヨーロッパへ侵攻したモンゴル軍は引き揚げましたが、それとは別にロシアの大平原を制圧したモンゴル軍の侵攻にブルガリアは悩まされました。
日本の元寇の30年ほど前です。
ブルガリア軍は善戦しましたが、大きな打撃をこうむりました。
この打撃により中世ブルガリア帝国は衰退して、1392年、オスマン・トルコ帝国に滅ぼされました。
当時の日本は南北朝時代の末期です。

 

 

「歴史好きの素人が語る歴史」まぐまぐメールマガジンID:0000183170より

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 【地理】

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インドの高速道路網 「黄金の四角形(GQ)」
近代化に向けて急速に整備が進む

近年、中間層が劇的に増え“マイカーブーム”に沸くインド。ナショナル ジオグラフィック日本版10月号では、東西と南北の主要な都市を経由して、アラビア海とベンガル湾を結ぶ夢の高速道路建設で変貌を遂げつつあるインドの現状をレポートした。
 同国のモータリゼーションを加速しているのが、政府が積極的に進めている道路網の整備だ。中でも、その中核となるのが、「黄金の四角形(GQ)」と呼ばれる新しい高速道路だ。全長は5846キロメートル。人口の集中するデリー、ムンバイ、チェンナイ、コルカタの4都市を結ぶ。

 

 

太平洋のど真ん中、キリバス
(原稿執筆:在フィジー日本国大使館キリバス兼轄 辻村 幸弘 二等書記官)
(1)キリバス概要
キリバスは、赤道と東経180度の交わる点を中心に西からギルバート諸島、フェニックス諸島及びライン諸島の三つの諸島群からなり、東西間3,870キロメートル、南北間2,050キロメートルの領海内に33の島々が散在する島嶼国家です。
国土面積は僅か720平方キロメートル(対馬とほぼ同じ、日本の約0.2%)。
人口は9万2千人。国土は隆起性珊瑚により形成されており、痩せた土壌は農業には適さないだけでなく十分な土地の確保も困難であり、生鮮野菜等の食料品をはじめとして生活物資の多くを海外からの輸入に依存しています。
一方、EEZ(排他的経済水域)は面積にして355万平方キロメートル(日本の約88%)、また体積にして1,640万平方キロメートル(世界第3位)を有し、この広大な海域は魚介類の宝庫(特にマグロ・カツオ類)であり、日本などの外国漁船による入漁料収入は、観光産業に並んでキリバスの国庫を支える重要な外貨獲得源となっています。
キリバス人は、紀元200〜500年頃に南太平洋の東から吹く風を利用して移り住んできたミクロネシアの人々が起源であると言われています。
1606年、スペイン人探検家によりブタリタリ環礁が発見され、
1788年に英国海軍大佐ギルバートが上陸。
1892年に英国の保護領になり、
1916年にはギルバート諸島とエリス諸島(現在のツバル)
が植民地となりました。
その後、第二次世界大戦中の1941年には日本が一時的に進駐し、2年後の1943年にはタラワを主戦場とした米軍との激戦が起こり、日本軍が玉砕し米軍が当地を占拠することになります。
終戦後は再び英国の植民地となりますが、1975年にはエリス諸島が住民投票による合法的な手段で分離され1978年ツバルとして独立。
その後、ギルバート諸島も英国政府との間で独立が合意され1979年にキリバス共和国として独立しました。
独立後30年近くが経過していますが、独立と同時期に財源を支えていたバナバ島のリン鉱石が枯渇し、国家財政は非常に厳しい状況に置かれてきました。
現在、キリバスは、入漁収入、観光業、外貨送金などが国家経済を支える重要な手段となっていますが、不十分なインフラ環境、人的資源の不足、脆弱な国土、世界市場からの隔絶など、自国の力のみでの発展は厳しく、日本をはじめ豪州、NZ、台湾などからの支援に頼っているのが現状です。

(2)経済協力(ベシオ港)
(イ)日本港と称されるベシオ港
キリバスは、地理的に世界の市場から隔絶され、かつ国土が拡散しているため海上輸送が社会経済活動を支える重要な生命線となっています。
首都タラワに所在するベシオ港は、同国で唯一外貿貨物を取り扱う国際港であるとともに、国内の各離島への物流、旅客輸送の拠点としてキリバス経済を牽引する重要な役割を担っています。
ベシオ港は1950年に小型船舶用の港として整備されましたが、建設以来45年間、本格的な維持補修が実施されなかったため老朽化が著しく、また国際的な貨物のコンテナ化の流れに伴う港湾機能の不足を解消すべく、1997〜2000年に一般無償資金協力「ベシオ港整備計画」(総額約24億円)によりコンテナ貨物の取扱が可能な岸壁及びヤードの整備を実施しました
(この頃から、現地の人々は日本政府に対して敬意を表してベシオ港のことを「日本港」と称するようになりました)。

(ロ)自然災害
2002年11月、ベシオ港はエルニーニョ現象による海面水位の上昇、大潮による高潮位などの複合的な要因による異常波浪の来襲により護岸が破壊されるなど甚大な被害を受けました。
日本政府は、キリバス政府からのベシオ港復旧及び異常波浪対策の要請を受け、2004年−05年の一般無償資金協力「ベシオ港修復計画」(総額約8億円)により、新たな設計条件のもと前面消波鋼矢板形式の護岸整備等を行い、自然災害に強いベシオ港を整備しました。

(ハ)コンテナ船の大型化
海上コンテナ貨物が登場して40年。
船舶と港湾の環境は著しく変化しています。
船社の輸送戦略に基づく効率的かつ低廉な一括大量輸送の追求は船舶をますます巨大化させ、これに呼応するように港湾管理運営者側は港湾施設の大規模化、高速化、効率化などその時代に即した港湾整備を進展させています。
船社の輸送戦略は時として港湾を成長させ、成長した港湾はさらに多くの船社を惹き付けます。
世界的に繰り広げられる海運業界の熾烈な競争の波は、否応なくキリバスにも押し寄せてきています。

(ニ)ベシオ港の現状
太平洋島嶼国へ海運サービスを提供する船社においても、輸送の効率化の観点から船舶を大型化させています。
ベシオ港に入港するコンテナ船は岸壁全面の水深不足により接岸することが出来ず、水深が確保される沖合に停泊したままコンテナをバージ(はしけ)に載せ替える二次輸送による運搬を余儀なくされています。
この非効率な荷役作業は、関与する荷役機械や労働量を増やし、また船舶拘束時間が増すことにより荷役費用の上昇を招き、これが物価に転化され、結果的にキリバスの物価を押し上げる原因にもなっています。
また、生活の質の変化に伴い海外からの輸入貨物量は年々増加し、ベシオ港における取扱貨物量は、2001年から2005年の間で約2倍(コンテナ貨物量は約3倍)に増加しています。
大洋州の島嶼国は、生活物資の多くを海外からの輸入に依存しているため、その国の玄関口となる港湾の施設が十分に機能しないと、物価上昇、生活物資の不足などその国にとって様々な負の影響をもたらすことになります。
キリバスにとってベシオ港はまさに生命線であり、港湾機能の低下はキリバスの島々の住民の生活にも大きく影響することから、2005年、キリバス政府は日本政府に対して、ベシオ港のコンテナ荷役施設の機能強化を求める要請を提出しました。
これを受け、2008年6月、基本設計調査が実施され、現在、詳細設計調査に向けた調整が進められています。

(ホ)切手になったベシオ港
キリバス政府は、日本の無償資金協力によるインフラ整備を非常に高く評価しており、過去にベシオ港の絵柄の記念切手が発行されたことがあります。

 

 

【ODAメールマガジン】より

登録・解除: http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/mail/index.html

 

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